聖書 列王記下20章1~11節
マタイによる福音書6章5~6節
説教題 「敬虔な祈り」
「『ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください。』こう言って、ヒゼキヤは涙を流して大いに泣いた」(3)。
 自分自身が死にかけているときにも、ヒゼキヤは主だけを頼みといたします。そして、主に祈ります。このような主への一途な思いこそが、当時のイスラエルの民に欠けていたものでした。ヒゼキヤに見られるような主への敬虔さを忘れておりました。
 それだけにヒゼキヤの敬虔さが光りますが、御言葉はヒゼキヤを英雄として伝えることをいたしません。死を告げられたとき、「涙を流して大いに泣く」人間でした。私たちと変わらぬ人間であります。死はもう絶対避けられないと思う一方で、生きていたいという自分の願いもあります。主のご意志と自分の願いとが一致しません。
 ヒゼキヤは死を告げられて、「仰せの通りにいたします」と申し上げたのではありません。「自分を思い起こしてください」と祈り、涙を流して泣くわけです。彼の敬虔さは、主の言葉を無条件で受け入れることではありません。主に対する「ささやかな抗議」とでも申しましょうか、ヒゼキヤはそういうことを試みているわけです。抗い、粘り、あがきます。それも祈りであります。