聖書 申命記6章1~3節
    ヤコブの手紙1章19~25節
説教題 「御言葉を行う人」
「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」(22)
  御言葉を自分に受け入れるには、私たち自身の決断が必要です。聞かされた御言葉を、その都度、「その通り」「アーメン」と言って、自分の内に納めます。決断を促すのは聖霊の働きによりますが、自分の意志と無関係に言わせることはできません。私たちが御言葉によって動かされ決断することを、ヤコブはここで「行い」と呼んでいます。
  御言葉によって罪人の自分が死ぬ、ということが起こります。一度だけでは済みません。主イエスが十字架で死ななければならなかった。それほどの罪を自分が犯していることを、主イエスの死を通して知らされます。しかし、その御言葉が同時に、私たちを生かすのです。主イエスが十字架で死なれたからこそ、罪人であろうとも赦されて生きることができます。
  これが私たちにとって「御言葉を行う」ことです。礼拝も「御言葉を行う」ことの一つの表れです。主イエスの御旨に適うことをするのもそうです。自分は主のために何ができるか。「御言葉を行う」というのは、要はそういうことです。主のために、と思うことで、逆に私たちは主によって生かされるのです。