聖書 イザヤ書45章2~3節
    コリントの信徒への手紙二4章7~12節
説教題 「宝が土の器に」
「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」(7)
  パウロは自分を粗末な「土の器」にすぎない、と言います。壊れやすく、脆い人間ですが、「宝が納められている」と言うのです。「宝」というのはキリストの福音です。これさえあれば十分というものを、パウロは「宝」としてキリストから与えられました。この宝には「並外れて偉大な力」が秘められていますから、本当のことを言えば、宝を納めるには似合わない器ですが、宝が貴いことを知らせるには具合が良いのです。
  私たちに宝が与えられたのは、私たち自身が恵みを受けるためだけではありません。宝の輝きを見せるためでもあります。福音を携えて生きている姿を見せます。ほかの人たちにキリストの命を運ぶ器として、私たちは神に用いられます。運んでいる途中で、何かにぶつかって器が壊れかけることもあるでしょう。傷つき、病むこともあります。頑丈ではありません。私たちは土の器ですから弱くて当たり前です。しかし宝の価値は損なわれませんから、神の偉大な力が働くところを、私たちは目の当たりにできるのです。