聖書 詩編22編28~30節
    マタイによる福音書27章11~26節
説教題 「イエスを十字架に」
「ピラトが、『では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか』と言うと、皆は、『十字架につけろ』と言った。ピラトは、『いったいどんな悪事を働いたというのか』と言ったが、群衆はますます激しく、『十字架につけろ』と叫び続けた。」(22~23)
  群衆は主イエスを死刑にさせるために「十字架につけろ」と叫びました。総督のピラトは群衆が大騒ぎをしてエルサレムが混乱に陥ると自分が責任を問われます。そこでピラトは水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言いました。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」(24)。自分の潔白を示そうとしたわけです。ピラトは主イエスが無実であるのを知りながら、主イエスを釈放するのを諦めました。
 ピラトの言葉を聞いた民は「その血の責任は、我々と子孫にある」(25)と答えました。主イエスが十字架で死なれた責任は自分たちにある、と認めています。無実の神の子を死なせる、その十字架の重さが分かって言ったとは思えません。それなのに主イエスは無実の主イエスを捨てた罪も、十字架につけろと叫んだ罪も、何も知らずに連帯して負わされた罪も、すべての罪を担ってくださいました。赦すことのできない罪は主イエスにはありません。罪を赦すのは神の御心です。
週報4月13日